They Say, I Say.

こんにちは、「アイスに例えるならパナップ」の呼び声も高い僕です。


1. They say, I say
アメリカの名門大で博論を書き上げて帰ってきた院の大先輩が、今期母校で講義をやってくださるというので履修することにした。
英語のアカデミック・ライティングや、プレゼン、ディスカッションの勘所を学ぼうという趣旨の授業で、アウトプットを訓練する場はなかなか得難いから、とてもありがたいと思う。
ひとまず前半のテクストとしては、これを使うことが決まった。

They Say/I Say: The Moves That Matter in Academic Writing

They Say/I Say: The Moves That Matter in Academic Writing

わりと新しい本で、主にアメリカの学部新入生たちが、文章の書き方のイロハを学ぶのに使う教科書的なものらしい。
タイトル"They Say, I Say"が端的に示すように、本書が提案するのは、会話"conversation"としての文章の書き方を身につけるということ。
ただ「オレがオレが」と自己主張するのではなくて、自分の考え("I say")を、他の人ないし他の集団("they say")への応答"response"として提示することの大切さを、本書は繰り返し説明する。
そもそも僕たちが何かを訴えたいとか論じたいと思うのは、多くの場合、そうするよう駆り立てる他の人の主張なり状況なりがあったからだ。
そしてそれに対して自分は同意するのか、反対するのか、どちらでもないのかを示すことで、しばしば起こる「言っていることの内容はわかるけど、なぜそれを言ってるのかがわからん」という状況を回避することができる点でも、会話として文章を書くことは重要だそうな。


まあ具体的には、これ、テンプレ集です。トピックごとに、こういうときはどういう言い回しを使えるのかをとにかく体で覚えてください的な本。
テンプレートの叩き込みについては著者の生徒たちからもたいてい反発が多くて、「そんなことばっかりしてたらライティング・マシーンになっちゃうザンス」とか「自分ジャズ・ミュージシャンなんで、もうちょっとインプロっぽい独創的なことしたいッス」とか言う不満が毎年出るのだそうだ。
しかし、独創性なり創造性というものを勘違いしちゃイカン、と筆者は釘をさす。
超前衛的なジャズ・ミュージシャンだって、基本のフォームはきちんとマスターしてからやっているのであって、それがなかったら子供の戯れと変わんないのだよ、と。

Ultimately, then, creativity and originality lie not in the avoidance of established forms but in the imaginative use of them (11).
[拙訳]
突き詰めていくと、創造性や独創性というのは、確立された型を避けることにあるのではなくて、それらの型の想像力豊かな使い方のうちにあるのです。

まあどっかで聞いたようなコメントだといえばそうなんだけど。
でも、基本の型をないがしろにしちゃいけないってのは、論文を書くときでも、パンやケーキを作るときでも、絵を描く時でもきっとあんまり変わらないと思う。
だからといって、じゃあキミは実践できてんのか、って突っ込まれたら相当タジタジしますけど 笑


また、会話として文章を書くことの大切さは、イントロダクションの末尾に置かれている以下のくだりに集約されるだろう。
多面的で複雑に込み入った会話ができる能力は、2001年9月11日以降特に大事になっており、私たちの未来は、考え方が大きく異なった人の立場からものを考えることができるかどうかにかかっている、と筆者は主張する。

The central piece of advice in this book―that we listen carefully to others, including those who disagree with us, and then engage with them thoughtfully and respectfully―can help us see beyond our own pet beliefs, which may not be shared by everyone. The mere act of crafting a sentence that begins "Of course, someone might object that________" may not seem like a way to change the world; but it does have the potential to jog us out of our comfort zones, to get us thinking critically about our own beliefs, and perhaps even to change our minds (14).
[拙訳]
本書のアドバイスの中心――つまり、自分たちと意見の合わない人たちをも含めて、他の人たちの話をよく聞きましょう、そして彼らと思慮深く、敬意をもって交わりましょうというアドバイスーーは、みんなと共有できないかもしれないような、自分だけの特別な価値観を乗り越えてものを見るのを助けてくれます。「もちろん、_______という反対意見をもつ人もいるかもしれない」で始まる文章を組み立てる、などという瑣末な行為は、世界を変えるための手段には見えないかもしれません。しかし、そういう風に文章を書くことで、私たちは、自分のいる居心地のいい場から揺さぶり出されたり、自分の信念についてじっくり考えたり、そしてひょっとしたら、自分の考えかたを変えたりすることになる可能性だって、確かにあるのです。

確かに、文章の書き方を気をつけたって世界は変わらないかもしれないけど、でも人の話をきちんと聞こうという姿勢がそれを通じて広がっていく先には、幾分かでもいいことがある気がする。



なんていうか、自分のつまんなさに嫌気がさすときとかに、広い文脈を思い描くことでちょっと救われた気になることがある。
でもそれは単なる自己欺瞞とかまやかしでしかなくて、自分は公共性みたいな概念を都合良く搾取しているだけのような気もする。

疲れてるな、青年。




2.秋ミュージック第二回
前回に引き続き、秋っぽかったりエモかったりする曲を3つばかし。
今回はやや音響よりで。

a. "Arne" by Haruka Nakamura

Akira KosemuraとSerphとで、ジャニスでは日本の三大若手音響勢みたいなプッシュをしていました、haruka nakamuraの1stアルバムから。
1:36からのウィスパーヴォイスは、You Tubeのコメント欄を参照したところ、"Sleep it out/ Downwards, down/ With the whole town/ Downwards, down/ Sleep it out"って言っているらしいです。

b. "Iambic 9 Poetry"

イギリスのテクノミュージシャン、トマス・ジェンキンソンさんのソロプロジェクト、Squarepusherです。
恥ずかしながら、語れるほど多くは知りません。
「自分ミニマルとか眠くてダメズラ」というせっかちなあなたは、4:30のカウントからだけでも聞いてください。
自分の代わりにこれだけドラムをぶったたいてくれているんだと合掌。

c. "ギンヤンマ" by キセル

唯一の歌モノ。
ジャケットも中身も素敵なキセルの3rdアルバムから。
実は秋っていうより冬っぽい曲だと思うんだけど、タイトルがギンヤンマですからね。
カラフルな電子音がエモくて好きです。


ブログを読んでくださっている方、お気に召した曲があったら会ったときにでも教えてもらえるとうれしいです!

秋と私

(1)論文とメンタリティー
月末〆切の投稿論文を書くにあたって、ふと初心に帰りたいような気持ちになり、学部生時代にゼミで読んだこの本をパラパラと手繰る。

創造的論文の書き方

創造的論文の書き方

学部生時代に教えていただいた先生のさらに先生のご著書。
学部生〜大学院修士課程の学生を中心的な読者として想定し、論文の書き方に関する基本的なものの考え方を説明している。
経営学がご専門の先生による本なので、内容としては、基本的には社会科学(Social Science)の分野により密接な関わりがあり、自分がいまいる人文学(Humanity)の分野、たとえば僕のやっている文学研究と隅々まで整合的というわけではないかもしれない。
しかし、「論文を書くとはどういうことか」「論文の意義とはどこにあるのか」「科学とは何か」といったような、シンプルだがしかし根源的な問いにきちんと向き合っている本書は、分野を超えて、様々な読者にとって論文を書く上で示唆に富んでいるように思う。
また、英米文芸評論家の福田恆存から論理展開上の刺激を受けたと語っているくらいなので、人文学の枠組みに対しても決して否定的なわけではない。


ざっと読み返してみて、個人的に覚えておこうと思ったのは、本書が提示する論文執筆プロセス起承転結の「転」を描いた第三章のある部分。転とは、「知的作業の方向がこれまでは自分の頭に向けられていたのが、一転して他人つまり論文の読み手に向かっての方向に変わる」(186)プロセスだという。
論文は読者を想定して書くものだから、作業経緯や、発想のきっかけといった「舞台裏」を見せびらかすべきではなく、仮説と証拠の質という「表舞台」で勝負しなければいけないのだ、と話が進む。
そしてここで、つい舞台裏を見せたくなってしまうメンタリティーについて言及がされる。

文章に表現するという作業がついつい自己中心的になるのは、無理がない部分もある。
表現するということは、ある意味でつらいことである。自分の中身を他人と自分自身に見せる作業になってしまう。そして、自分の真の理解の程度を自分自身が知る作業になってしまう。
そのためであろうが、表現すること、書くことは自己嫌悪との戦いになる。自分はこの程度か、と思い知らされるからである。だから、あまり徹底的にあるいは明確に表現をしたくなくなる。その代わりに、自己弁護といっては表現がきついかも知れないが、ついつい作業経緯を書いたり、発想のきっかけを書いたりしてしまう。
そればかりでなく、多くの人が文章に表現するプロセスで難渋して、時間がかかる。無理もないとは思う。しかし、思い切らないと文章、とくに長い文章は書けない。思い切るとは、結局のところあきらめることである。この程度でまあしようがないか、と自分にあきらめさせることである。
あきらめるのは敗北主義だと言って、頑張る人もいないではない。しかし、それは一種の自己陶酔に似ている。頑張っている自分の姿が「自分にとって」美しいのである。それもまた自己中心的で、あまり建設的とは言えそうにない。あきらめるかどうかを考えるのではなく、むしろ「より健全なあきらめ方」とはどのようなものかを考えた方がいい。その方が、自己中心的でなくなる。
(……)しかししばしば、あきらめの強制は外からやってくる。原稿の締め切り、論文の提出期限という〆切である。そうした外圧がなければ、圧倒的に多くの人は「文章に表現する」という作業を終えることができないだろう。(……)
自己嫌悪を振り切って、他人に理解してもらうために書く。それが「文章に表現する」という作業の一つの基本である。 (193―4)

長めの引用になってしまったけど、大切なことを言っていると個人的には思う。
自分と向き合うのはきついことだけど、それで自己嫌悪になるのは確かに健全ではない。全然ない。
結局いい論文を書こうと思ったら、人間的に成熟しなきゃってことなんだよな、ちょろっとそんな気がした。



(2)Fake Plastic Trees
すっかり秋ですので、これからしばらく秋っぽくバラードとかエモい曲をあげていこうと思います。
初回はこれ。
"Fake Plastic Trees" by Radiohead

わが青春時代のアイドルRadioheadの中でも一番好きな曲。
画質はイマイチかもだけど、出音としては、この動画がYou Tube上にあるこの曲のライブ映像では一番イケてるんじゃないかと思います。
リードギタージョニー・グリーンウッドがむっちゃいい仕事してる!


タイトル中の"plastic"には、そのまま「プラスチック」の意味もあるけど、「ニセモノ、まがいもの」という意味もあります。
一回ガチで歌詞解釈を書きかけたんだけど、さすがにいろんな意味で痛すぎると思うのでやめました 笑。


だけど、もう10年くらいこの曲を聞いていて、それでもいまだにこの曲が大好きです。
歌詞は暗めなんだけど、とてもスイートなメロディ、曲だと思います。
それではライブ映像2:10の"it wears him out"(それが彼をすり減らす/疲れさせる)からみんなで大合唱しましょう!
せーの、ぅううえええーーーああーーああーーああーー!




おまけ1:
オリジナルPV。
バンドメンバーがカートに乗って運ばれていくのは、自分たちもまた消費される商品にすぎないということの揶揄だそうです。


おまけ2:
Christopher O'rileyがピアノでカバーしたFake Plastic Trees。
せっかく電子ピアノを買ったのにすっかり練習しなくなっちゃったけど、この曲はいつか弾けるようになりたい!

The trick is that you don't think about a Indian being ...

ようやくMcCullersの論文執筆に取り掛かりはじめた。

Modern Classics Heart Is A Lonely Hunter (Penguin Modern Classics)

Modern Classics Heart Is A Lonely Hunter (Penguin Modern Classics)

アメリカ南部の田舎町を舞台に、聾唖の男John Singer(耳は聞こえなくても口元が読める)と、彼だけに自分の日々の悩みや不満や願いや希望を話す4人の男女をめぐって話が展開する。
情景描写の鮮やかさや細やかな心理描写のせいあって、前半までは下町人情モノとか青春小説的な印象をいくらかもっていたのだけれど、中盤以降はバリバリにポリティカルだった。
イタリア・ムッソリーニ政権のファシズムやドイツナチズムの台頭、それに対抗するための戦闘的民主主義の必要性、工場や農場で搾取されている賃金労働者を救済するための共産主義の理念、そして南部の深刻な黒人差別問題、こうした問題系が登場人物の間で論争になっていく。


以下、↑のペーパーバック版にKasia Boddyによるとても素敵なイントロがついていたので、参照させていただきつつMcCullersや本作について少しだけご紹介。
作者であるMcCullers女史は、この処女作が1940年に出版されたとき、まだ若干23才。男物の白シャツを着て指先にタバコをはさんだ有名な写真イメージもあいまって、彼女は、最初から一つのアメリカの伝説だったという。
(↓でグーグルの画像検索に飛びます。三つ目の写真が特に有名のようです。)
http://www.google.co.jp/search?q=carson+mccullers&hl=ja&rlz=1C1RNPN_enJP383JP386&prmd=imvnsbo&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=dhKCTtOjB6bPmAX4_eEr&ved=0CDsQsAQ&biw=1280&bih=649


詩的な作品を評価しつつ、政治的な作品を厭う保守的な1940年代―50年代の英米批評空間の中では、本作は「ドキュメンタリーがやりたい」のかそれとも「詩的な価値を作品に付与したいのか」が曖昧だという根拠で、必ずしも高く評価されたわけではなかった。事実、そうした風潮の中にあったMcCullers自身、ここまで赤裸々に政治的な小説を書くことはそれ以降二度となかった。しかし、本作を書いた1938年と39年には、「マッカラーズにとって、政治と詩とを、また、ドキュメンタリーと「プロレタリア的奇怪さ」と呼ばれてきたものとを接続することには何の問題もなかった」(Boddy, xviii)のだそうだ。


僕の浅はかな知識でも、既にいろんな文脈が浮上してくる。ムチャ面白いし、間違いなく博論の重要な一章になってくれる素晴らしい小説だと思う。
ひとまず10月末の〆切に向けてがんばるぞ!



で、もう一つおまけで、この小説の中に出てきたクイズをば。
全然重要なシーンとかではない、枝葉の部分からなのだけれど。
ぜひお付き合いいただきたい。
ジョージがポーシャになぞなぞを出している。

‘Two Indians was walking on a trail. The one in front was the son of the one behind but the one behind was not his father. What kin was they?'
‘Less see. His stepfather.'
George grinned at Portia with his little square, blue teeth.
‘His Uncle, then.'
‘You can't guess' (243).
[拙訳]
「二人のインディアンが小道を歩いていたんだ。前を歩いているほうは後ろのやつの息子なのだけど、でも後ろのやつは彼の父親ではありません。彼らはどんなつながりなのでしょう?」
「そうねえ。彼の義父だわ。」
ジョージはポーシャに、小さくて四角い、青白い歯を見せてニヤッと笑った。
「なら彼のおじよ。」
「わかりゃしないよ」


さあ、どうだろうか。
こんなブログを読んでくださっている、寛大にしておヒマなあなた、是非考えてみてください。
正解はこちら。
枠の中を文字反転させれば読めると思います。

‘It was his mother. The trick is that you don't think about a Indian being a lady' (243).
[拙訳]
彼のお母さんだったのさ。ひっかけは、みんなインディアンが女性だとは思わない、ってことだよ。


さらにもう一つ、応用編ということで、こっちはどうでしょうか。結構有名な問題で、僕が昔就職した会社の入社式でも取り上げられていたくらいなので、すでに答えを知っている人もいるかもしれませんが。

路上で交通事故がありました。大型トラックが、ある男性と、彼の息子をひきました。父は即死しました。息子は病院にはこばれました。彼の身元を、病院の外科医が確認しました。外科医は「息子!これは私の息子だ!」と、悲鳴をあげました。

この話は筋が通らないのでしょうか?
さっきの問題を知っていれば、これは一瞬で答えがわかった人もいるかもしれません。


答えいきます。

外科医は母親。ポイントは、外科医=男だと思いこまれがちだということ。


二つとも似たような問題だけど、ここから引き出すべき教訓は、おそらく、フラットに物事を見ているつもりでも、いかに僕たちの眼差しがステレオタイプ化の暴力を内面化してしまっているかということ、そしてより重要な点として、偏見は意識して一つ一つ改めていくものだということ、だろうと思う。
言葉の網の目の中に生きている以上、そこから完全に自由になるなんてことはついにできないのかもしれないけれど、意識すれば一つ一つ、絡まった結び目をほどいていくことはできる。



すっかり気候も変わって秋になってしまい、10月から学校も始まる。
10月は相当詰め込みすぎて、睡眠不足になるんだろうなあと今から危惧もあるが、全部自分で決めたことだから覚悟して臨みたい。
・・・いや、こんなブログ書いているヒマがあったら今寝ろボケ、という主張には100%同意しますけど。

R奨学金と私

8月に受けたR奨学金面接の結果が今日届いた。
気になる結果は・・・
ジャーンジャラジャラジャラジャラジャラジャラ・・・(やりたいだけ)




合格でした!


励ましてくれたみなさま、どうもありがとうございました。特に、現在イギリスに留学中で、書類の書き方から面接の予想質問に至るまで親切にアドバイスをくれたNさん、どうもありがとう。Facebookの方でもご報告とお礼をさせてもらったけど、ひとえにNさんのおかげだと思ってます。


ただし、ここからまだ大きく2つの問題がある。
一つは、受け入れ先クラブがどこになるかまだわからない、という点。自分の場合だと、アメリカから三つの地域、カナダとオーストラリアからそれぞれ一つの地域を志望留学先として提出したのだが、最終的に受け入れ先がどこになるかはまだわからない。アメリカ文学をやるわけだし、アメリカに受け入れ先が決まってほしいわけだが、それは自分では決められない。


二つ目に、受け入れ先がたとえばイリノイ州に決まったとしたら、イリノイ州の大学から合格をもらわなければならない。これがかなり鬼門。奨学金があるだけでも去年よりは少しは見込みありかもしれないけど、去年の手痛い経験もあるし、少しも気は抜けない。



そして、奨学金の受給はとてもうれしいニュースだけど、ただ単にそれを「やったラッキー」で済ませるのは、ほとんど犯罪的なことだと思う。
以下、自戒のために書いておきたいのだけれど、たとえば、このお金を震災の被災地に送れば復興活動はその分だけ明らかに進展するだろうし、あるいは、財団が力を入れているポリオの撲滅運動についても、僕なんぞの留学費用ではなくて、ダイレクトにナイジェリア、インド、パキスタンアフガニスタンにお金を回せば、それでたくさんの子供の命が助かるだろう。
奨学金をもらうというのは、そういう他の可能性を削って、自分に託してもらうということだ。
だから、「自分のやりたいことをやる」とか、「自分の自己実現のため」ではなくて、自分のやることの公共性や、果たしうる役割をきちんと意識しなくてはいけないのだろうと感じる。
英語面接の中で、「財団があなたにあたえた援助を、あなたはどうやって還元できると思いますか」という質問が最後にきた。
一つは、奨学生に義務付けられている、当地と日本国内での10回以上のスピーチを通じて、もう一つは、将来教員になることができたら、自分の生徒たちに公共性の意義を伝えることを通じて、もらった援助を社会に還元したい、とか大それたことを答えた。


自分は小心者だしとても器の小さい人間だと思うけれど、大それたことや、無理にでも明るい言葉を紡いでいくうちに、いつの間にか、本当に言葉が指す方に自分や世の中が向かっていくかも、などというぬるい希望を抱いて、こういう痛々しいブログを綴る。


P. S.
先日のライブを見に来てくださったみなさま、どうもありがとうございました!このブログを見てくれてそうな人だとholmesさん、耕平さん、Hさん、Tさんでしょうか。異例のお客さんの入りで、自分歴トップ3に入るくらい楽しいライブをさせてもらえました。
といっても、録音した音源を後日聞いたら、一曲目"Spain"の自分の走りっぷりに愕然としましたが 笑。もうね、走る走る。どんだけチキンなんだオレは。チキン・ケンジですね。
ともあれ、本当にありがとうございました。
最後に、こないだやった懐かしの名曲『ロマンティックあげるよ』を。
Bメロの完全に無駄なキメっぷりが笑えて好きです。

9月17日ライブ@国立/魅惑のpocopoco

音楽関係のネタを二つばかし。


1)ライブ告知させてください!
かなりショートノーティスなんですが、今週末に国立の焼酎バ―でライブやります!

9月17日(土)19:00〜、武蔵野ファイターズライブ、@焼酎バーかろる
お店のリンクはこちら↓
http://www.shubelu.co.jp/carol/index.htm

JR国立駅南口から出て徒歩30秒、改札出てすぐ右手のビルの二階です。
チケット代などのお金はかかりませんが、焼酎バーなので、お酒なりソフトドリンクを飲んでいただく感じになると思います。
むしろ、ライブ終わった後、一緒にそのままお店で飲みましょう!
なんとなく夏が終わっちゃった感じがしてセンチメンタルなあなた、はたまた『コクリコ坂から』を見てそのあまりのネオリベラリズムっぷりにゲンナリしてしまったあなた、一緒にパーッっと景気づけしましょうよ!


予定セットリスト
1. Spain/ Chick Corea
2. 雨にキッスの花束を (『YAWARA!』オープニングテーマ)
3. ロマンティックあげるよ (『ドラゴンボール』の初代エンディングテーマ)
4. 炎の宝物 (『ルパン三世カリオストロの城』テーマソング)
5. Karma Chameleon/ Culture Club
6. Close to You/ Carpenters
7. 透明人間/ 東京事変
8. Stand By Me/ Ben E. King


とゆー感じです。
ご覧の通り何ら一貫性のない曲目ですが、でも確かにイイ曲ばっかりですよ!
"Spain"はBm→Dm、"透明人間"はD→Cにキーを変えちゃっているので、D調大好きの僕としてはちょっぴり悲しいのですが、でもがんばります。
おヒマがあればぜひ。



2)Pocopoco
学部生のとき、軽音楽部というサークルに入っていた。
先輩・同期・後輩の中には、卒業後にも会社で働きながらバンド活動を続けている人もいるし、音楽スクールの講師になった人もいるし、PAをやりながらセミプロ的な活動をしている人もいたりと、何らかの形で音楽を続けている人が少なくない。
そして、そんな中でもひときわ面白い活動をしているのが、2コ下の後輩Kだ。
僕と同じく商学部を卒業した後、彼は都内の某大学の「インダストリアルアートコース」という課程に進学し、メディアアートを専攻している。
この間久しぶりに会って話をする機会があったのだが、なんと最近楽器を作っちゃったというのだ。
本人の許可ももらったので、ちょっとそれをご紹介したい。
まずは下の動画をみられたい。

そう、楽器といっても電子楽器なんですね。
「Pocopoco」というかわいらすぃーお名前だそうな。
イメージとしては、シーケンサーのタイムライン上に、16本の筒を通して音を置いていくという構想らしい。
「16本」の筒というくらいなので、12音階の鍵盤に対応するわけではなく、各筒に対応する音色とかピッチは自在に変えられる。
(まあぶっちゃけ使ったことないし、詳しい仕組みは正直よくわかってませんが。)



Kは入学時から面白いやつだった。
彼が一年の文化祭のときにスリーピースで椿屋四重奏のコピーをやっていたのだが、曲の合間のMCで「えー、今みなさんは日本のロックの夜明けを目撃したわけですが」と語り出したときの衝撃は忘れられない。
イベントを企画して人を集めたり、ネットで新しい催しを考えたり、いろいろと面白いことを考えて実行してやろうという意識が強くて、いい意味で野心的な人だと思う。
今回のpocopocoの動画を見せてもらったとき、彼は今いる院の環境が「すごく楽しいし、向いていると思う」と断言していた。
とても正直に、いいなあと思う。


しかし僕はそのとき逆に、面白そうなことをやっているなあと思いながらも、「ああ、でも自分には向かないだろうな」と強く感じた。
サークル活動の中でもはっきりと感じていたことだけれど、基本、自分はモノづくりに向いていないのだと思う。
いわゆる「クリエイティブ」なるものにあまりご縁がないというか。
何かモノづくりに携わる人って、多かれ少なかれ美学的哲学・信念みたいなものをもっていて、自分が作ったものの価値を自分が一番信じているということがある程度必要なのではないのかという気がする。
そして、自分にはそういう能力が全然ない。
自分で曲を作ったことも少しだけあるけれど、「どっかで聞いた歌メロだ」「ありがちなコード進行だ」そして「自分なんぞが作らなくても、世の中いい曲はいっぱいある」、すぐそんな気になる。(こういう話をし出すと、自分の作った曲が客観的につまらないものなのか、それとも自分の主観的尺度の問題なのかが区別できなくなって終わるのだが。)



一方、今やっている研究という畑に自分が向いているかどうかについても、自分には判断する能力がない。
でも、先人の研究でどういうことが言われてきたかをしっかり押さえて、その上にほんのわずかな一握りの知を積み重ねるという「巨人の肩に立つ」的な学問の流儀は好きだし、楽しいとも感じる。


なんともまとまりのない記事になってしまったけど、要するに、旧交を温めたことによって、自分の位置を眺め直す機会を持てて刺激をいただきました、という話です。たぶん。

最後に、今度のライブでやる東京事変「透明人間」を。

やっぱり亀田先生のベースは最高ですね!

初の投稿論文を出して

9/1、無事に論文を投稿できた。
掲載可否の結果は11月頃とのこと。初の投稿論文でもあるし、うまくいってほしい。
なんとなく、自分の分身のようでもあり、我が子のようでもあるような、そんな不思議な気持ちを今もっている(我が子持ったことないけど)。自分なりに、現時点で出せるだけの知恵は出したと思う。

指導教官のアメとムチに巧みに導かれつつなんとか書き切った感じだが、最終稿への最後の返信の中で一番甘いアメを持ってくるあたり、やられた、という感じがする。三蔵法師の手の平の上的というか、最後にツンデレのデレが来る感じというか。


書きながらいろいろと思いついた課題があるので、自戒のために思いつくままに箇条書きメモを残しておく。

1)学会発表と投稿論文は全くの別物
相対的に、前者ではキャッチーさが、後者では手堅さや慎重さが重要。学会発表した原稿をリヴァイズして投稿論文にするときには、特にそのあたりの差異をはっきり意識しないとうまくいかない。


2)先行研究や参考資料を読むときの心得
内容をきちんと把握するのは大切だが、それだけでなく、その論文の構成や話運びのどこが優れているのか、書く側としての視点も意識して読む。「ここで一回まとめを入れてくるのが上手い」とか、「テーゼと例示のバランスがどうか」とか、果ては「あ、今苦しそう」とか。結局、自分はまだ手堅い論文の書き方というか、neatでmatureな論文のイロハをわかっていないのだな、と実感した。


3)石橋をたたいて渡る感じ
2とかぶるけど、なるべく謙虚な言い回しを使いつつ、他の人の研究を丁寧に参照して、慎重に議論を進めるのも大事。もちろん大胆さも時には大切だと思うけど。巷で言われている(気がする)ような、英語には敬語がないとか、なんでもストレートに言っていい言語だなんてのは、少なくとも論文に関する限り、100%ウソっぱちでゲス。


4)パラグラフ単位をしっかり意識する。
自分の英語力のなさもあって、英語論文だとつい一文一文にばかり目を向けてしまいがちなのだが、パラグラフを意識して、全体の流れとして齟齬がないか注意する。パラグラフが移るときには、極力なめらかに前後の議論がつながるように、丁寧に。



そして、次の〆切は10/31。
今度は長さが約半分、注も文献リストも込みで5000wordsなので、短い分、特に慎重に、きっちりと書こうと思う。
多分、お題はコレで。

Modern Classics Heart Is A Lonely Hunter (Penguin Modern Classics)

Modern Classics Heart Is A Lonely Hunter (Penguin Modern Classics)

Carson McCullersのデビュー作。
もともとの題は_Mute_だったそうで、その名の通り、聾唖の主人公のお話。
まだ読み始めだけど、すっきりと読みやすい、清涼な文体が気持ちいい。



もう一つ紹介したいトピックがあったんだけど、長くなりすぎてもなんなので、また2〜3日したら書こうと思います。
代わりにロベカルのスゴイシュートでも。
念能力でも使っているとしか思えない曲がりぶり。(操作系か?)
キーパーが気の毒な気がします。

8月中旬

8/6 バイトに早入り。

神宮花火大会があるため、バイト先の警備会社の社員さんたちは幹部からバイトの人までフル出動。その間、人が少なくなる本社で電話番として待機する。花火大会が終わっても、ゴミ拾いや会場巡回など、社員さんがやることはたくさんあり、24時を過ぎてからやっと帰ってくる人が多数。半日、分厚い警備服に身を包んで立ちっぱなしだったらしい。近場のホテルを見つけて泊まる人、タクシーで帰る人、知人のところに泊まる人など。
クーラーのきいたオフィスで窓から見えた花火はなるほど綺麗だったけれど、でもそれはどこか犯罪的なことにも思えた。



8月第2週
主にファミレスにお邪魔して、ずっとこの子とベッタリだった。

The Grapes of Wrath (Penguin Classics)

The Grapes of Wrath (Penguin Classics)

修士論文の論題でもあり、今執筆中の投稿論文の論題でもある小説。ダストボウルと資本主義の論理によって従来住んでいた土地や生活様式を奪われ、仕事を求めて西へ移住することを余儀なくされた農民集団、そしてその集団の一部を形成する主人公ジョード一家の苦境を描く。「大恐慌期」ないし「赤の30年代」の縮図として一般に認識されるこの小説は、30年代アメリカ文学を代表する作品の一つになっている。
中盤から後半にかけて、カリフォルニアについてからが俄然面白くなる。ベタだけど、一番好きなのはやっぱり主人公トムが家族を離れ、そしてプロットから永久に消える、その直前にするスピーチ。一度バラバラに離れてしまったらもう二度と会えないのではないか、と彼の旅立ちを悲しむ母親に対して、トムが語る。

I’ll be all aroun’in the dark. I’ll be ever’where−wherever you look. Wherever they’s a fight so hungry people can eat, I’ll be there. Wherever they’s a cop beatin’ up a guy, I’ll be there. [...] I’ll be in the ways guys yell when they’re mad an’−I’ll be in the way kids laugh when they’re hungry an’ they know supper’s ready. An’ when our folks eat the stuff they raise an’ live in the houses they build−why, I’ll be there. See? (419)
[大意]
俺は闇の中にいるだろう。あんたが目を向けるところどこにでも、あらゆるところに俺はいる。飢えた人たちがものを食べられるように戦いが起きるところどこにでも、俺はいる。警官が人を殴っているとき、俺はそこにいる。[...]頭のおかしいやつらが叫び声をあげるとき、腹の減った子供たちが、夕食の支度ができたとわかって笑うとき、俺はそこにいる。俺たちの仲間が、自分で育てたものを食べて、自分で建てた家に住むとき―そう、俺はそこにいるだろう。わかるかい?

前半ではわりにわかりやすく左翼的メッセージをあげつつも、後半では"supper's ready"とか言っちゃうし、ぐっと生活感がでてきちゃうあたりどうなんだ、と思う読者もいるだろうが、しかし、「個人主義の価値と連帯の必要性」、「個と集合」、「部分と全体」の間の弁証法をめぐってこの小説が構造化されていると考えると、ちょっとこのスピーチの意味がよくわかる、と思う。
詳しくは、もし僕の論文が掲載してもらえたら読んでやってください。でも、もし数か月後にリジェクトされてそうだったら、そのときは察してやってください。その場合には焼肉や寿司をおごってやってください。焼肉は国分寺の煉瓦舎、寿司は築地で宜しくお願い致します。そのあとお酒をおごっていただければ幸甚です。



8/14
ルネ小平で「週末よしもと」のライブがあるので、見に行く。おしどり、御茶ノ水男子渡辺直美スリムクラブNON STYLE、インパルス、トリは麒麟というラインナップ。小平にもこの面子が来るんだなあと、ちょっとビックリ。
会場の笑い的には、スリムクラブNON STYLEが一番盛り上がっていたと思うし、自分も同感。脂がのっているような印象を持った。御茶ノ水男子も、僕は事前には知らなかったし、本人たちも無名さを武器に笑いを取ったりしていたけど、好きだった。
しかし、どの芸人さんも声がよく通るし、滑舌がありえなく達者で、ステージを広く使うのも上手。ネタ云々の前に、きっと基礎技術の獲得にものすごい努力を注いできからこその今なんだろうなあと思った。



8月第3週
実家に帰省する。
が、基本的にはひたすらパソコンの前で論文直し。最近ちょっとは英語を書けるようになってきたかも、とかほんのちょびっとだけ自惚れていたのだが、原稿をお送りするたびに指導教官から帰ってくる真っ赤な原稿を見て、身の程を知る。内容的にも形式的にも、これから学ばなきゃいけない課題は山盛りだが、でも、楽しい。
16〜17日にかけては、おさななじみのいつものメンバーで集まって、漫談を楽しみつつ麻雀大会。寝不足だったので、やや集中力に欠けてしまった気がして、せっかく集まれたのにもったいなかった。しかし、毎度のようにガッツリ笑い、夏休みを感じた。お昼を食べに一度だけ外出して、異常な量のパスタを食べたのが、どうでもいいような細部だけどなぜか印象に残っている。去年同じメンバーで日光旅行に行ってからもう一年かと思うと、時間の立つのは誠に早い。年末年始や来年の夏にはまた4人で集まりたいが、メンバーの一人の頭痛が早く治るといいなと思う―こういう言い方は無責任なのかもしれないけど。そして、次回こそはギャンブル王N沢を倒すのだ。
20日は、R財団の面接を高崎で受ける。15〜16人のおじさまたちに囲まれつつ。自分なりには手ごたえは悪くなくて、やっぱり自分は本番に強いな、と調子に乗る。これで落ちてたら笑い草だけど、そしたらうまく加工して「すべらない話」に仕立て上げよう。



最後に、最近発見したお気にのアーティストをご紹介。スペインのシンガーソングライター、Russian Redです。本国ではすでに大人気らしいですが。
ちなみに、Russian Redってのは、口紅の色の名前だそうです。



"Cigarettes"ののびのびした歌メロと、楽しそうな発音がステキ。
あと、二個目のライブ映像の歌い方がガーリーでかわいい。
ベルセバもプロデュースに噛んでいるらしくて、グラスゴーの音楽(ベルセバmogwai, arab strap, Iain Archer)とか、ちょっとメランコリーな感じが好きな人にはオススメですよ!


では、8月も残り一週間。投稿論文のラストスパートがんばるっす!