猛暑の11月初めに、実家にて

諸事情あって、月曜から群馬の実家に帰ってきております。
実家では家族が任天堂Wii Fitにハマっています。「ちぇっ、そんな子どもみたいな・・・」とか言いつつもやり出したら僕も夢中になってしまったとか、身体年齢が37歳と診断されて心が折れそうになったとか、そういった事実は欠片も存在しませんのでご安心ください。
だってお酒が入ってたからさ・・・。


(1)ルカーチのお話
来週のサブゼミでルカーチの"The Ideology of Modernism"を担当することになったので、地元の図書館の学習室にて読む(基本的に家じゃ勉強できないタイプ)。

The Lukacs Reader (Wiley Blackwell Readers)

The Lukacs Reader (Wiley Blackwell Readers)

論文の該当ページ:187-209。初出は1964年の著作_Realism in Our Time_。

ジェルジ・ルカーチ(Georg Lukács、1885-1971)。ハンガリー出身の哲学者、マルクス主義批評家。1919−1920のクン・ベーラ政権では、文部大臣と国防大臣を務める。


ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』とトーマス・マンの『ワイマールのロッテ』の比較から本論を始めるルカーチは、前者が代表するモダニズム文学の世界観が、「特定の社会的悲運ではあっても普遍的な人間の条件ではない」(190)はずの近代人の孤立状況を固定化して捉えている点を批判し、そしてモダニズムの美学を、「個の主観と客観的リアリティの間の弁証法」(192)を決定的に欠いており、「無の超越」(209)を許してしまう美学であるとして否定する。

Attenuation of reality and dissolution of personality are thus interdependent: the stronger the one, the stronger the other. Underlying both is the lack of a consistent view of human nature. Man is reduced to a sequence of unrelated experiential fragments; he is as inexplicable to others as to himself.
[拙訳]
現実性の希釈と人格の崩壊とは、このように相互依存している。片一方が強まるほど、他方も強まっていくのである。両者の根底にあるのは、人間の性質についての首尾一貫した眺望の欠如である。人は互いにかかわりをもたない、一連の経験の断片へと還元されてしまう。彼は、他人にとってと同様、自身にとっても説明不可能なのだ(194)。

ルカーチの見解においては、人間は「社会的動物」(189)であり、その生は抽象的な潜在性(abstract potentiality,190)と具体的な潜在性(concrete potentiality,190)に根付いており、そして主体は選択と決定によって環境に働きかけ、同時に自らを発展させていく存在である。抽象的潜在性と具体的潜在性の区別を消去し(つまりすべてを主観だとみなし)、そして主体性を称揚しつつ同時に自身のおかれている環境の客観的リアリティを犠牲にしてしまうモダニズム文学は、「芸術の豊穣ではなく、否認を意味する」(209)とルカーチは結論づけている。



大ざっぱな感想としては、ルカーチの代名詞ともなっている物象化(reification)概念や、その発想のもとになったとされるウェーバーの合理化(rationalization)概念は実は本論文では一度も言及されず、やや拍子抜け感があり、理論的な追究がここではあまり十分にされていないという印象がある。ゴリゴリした第一線の研究論文というよりも、想定読者を広めに取り、わかりやすく書いた論文なのではないかという気がする。もう少しルカーチの批評観・歴史観に深く迫るには、やっぱり『歴史と階級意識』(1923)を読むべきだろう。


もう少し具体的な感想。ルカーチアルチュセールの間にはかつて論争があったとどこかで読んだのだが、アルチュセールの批判の矛先がどこだったのかはおおよそ当たりがつく。
すなわち、ルカーチの論には、無意識の概念がごっそり抜けているのだ。この論文の中でもフロイトへの言及はあるのだけれど、彼のフロイト理解は「内向き志向」=「モダニズム的引きこもり」というやや一面的な図式に終始していて、後にアルチュセールからジェイムソンへと引き継がれていく無意識概念を組み込んでの批評が出てこない。
ジェイムソンは『政治的無意識』や続く「モダニズム帝国主義」の中でルカーチの議論を発展させ、モダニズム文学が実はそれに対応する社会状況である帝国主義を適切に表象し得ている――内容(content)ではなく形式(form)のレベルにおいて――可能性を指摘したが、ジェイムソンの読みは「不在の原因(absent cause)」としての歴史をテクストの「無意識として」看破するという試みだった。(とはいえ、もちろんジェイムソンはルカーチに格別の敬意を払っている。)

なお、ルカーチやジェイムソンを含めて、モダニズム研究の系譜のマッピングをしてくれている論文としては↓に入っているJohn T. Matthewsの論文が秀逸だと思います。
Matthews, John T. “What was High about Modernism? The American Novel and Modernity.” _A Companion to the Modern American Novel 1950-1950_, Matthews ed. West Sussex: Wiley-Blackwell, 2009, 282-305.

A Companion to the Modern American Novel, 1900 - 1950 (Blackwell Companions to Literature and Culture)

A Companion to the Modern American Novel, 1900 - 1950 (Blackwell Companions to Literature and Culture)

また、モダニズム研究の中でも特に、90年代末から盛んになっている"New Modernist Studies"ないし"Revisionist Modernist studies"のマッピングだったら、コレがいいと思います。(あんまりアメリカ専門ではないけど。)ちなみに、人文系に弱いウチの大学の図書館にもこの雑誌は入ってます。
Mao, Douglas and Rebecca L. Walkowitz. “The New Modernist Studies.” PMLA 123.3 (May 2008), 737-748.
http://www.mla.org/pmla



加えて、ルカーチに対してアルチュセールが批判したのではないかと推測されるのは、文学と社会、アートと歴史の関係性についての考察が、比較的シンプルな反映論(reflection)モデルに立っているように思われる点だ。例えばレイモンド・ウィリアムズが後に「マルクス主義と文学」の中で提示したような、媒介(mediation)の枠組みはまだ現れない。おそらくはそのあたりに起因して、形式と内容を区別しつつも、彼の認識は「形式」が持つ政治性まで踏み込むには至っておらず、議論が内容のレベルをめぐるものにとどまっているように思う。


少し批判めいたことを書いたけど、でも、個人的には読んでいて楽しかった。リアリズムのほうがモダニズムよりも大切だと主張するだけあって、自身の文体もすごく明晰で、曖昧なところがほとんどない。(逆にジェイムソンの文体がああなのは、モダニズムが大好きだからなのだろうという気もする。)イントロダクションでは彼は「モラリスト」だと位置づけられているけれど、倫理的な問題意識をはっきりと持った、誠実な人だったのだろうと思う。


個人的に一番収穫だったのは、リアリズムとモダニズムを対比する中で、平均(average)や珍奇さ(eccentricity)という形象の位置づけ方が、両者では異なるという主張がされるところ。ルカーチによれば、リアリズムにおいては平均と珍奇さという両極は、「社会的正常性social nomalityの理解に資する(189)」ものだった。つまり、人物の類型化は、社会の全体性の理解のための手段だった(もちろん、「正常性」という言葉には容易には看過できないニュアンスがあるけれど)。ところが、これがモダニズムになると、「珍奇さは、平均的なるものの必要不可欠な補完物になる」(189)というのだ。すなわち、「社会の諸悪に対する抵抗としての、神経症への逃避」(189)がモダニズムの戦略になるのだという。
うまくいくかは分からないが、結局書ききれなかったMcCullers論文を4月までに仕上げるに当たり、小説内の政治性の混淆ぶりをうまくルカーチとつなげて説明できないかと思った。



(2)GREと私
留学にあたって必要なGREというテストを16日に受けるのだけれど、マジでヤバイ。
(S先輩、600点なんてとても自信がありません。)
単語力がモノをいう試験なのだが、一日100個ずつくらい単語を覚えないと、悲しい結果になりそうだ。
というわけでしばらく単語暗記マシーンになることをここに決意します。
みなさま、サボってそうだったらドロップキックを見舞ってやってください。
たぶん全力でよけますが。



(3)秋ミュージック 第四回
せっかく11月なのに今週は記録的猛暑だそうで、25度の日もあるそうですね。
うれしいような悲しいような。
おもに悲しいですが。
今回は、スコットランドグラスゴーしばりにしてみました。死ぬまでに一回は行ってみたい場所の一つがグラスゴーです。好きなアーティストがいっぱいいるんです。

1 Arab Strap
基本暗くダラダラと詩を朗読するスタイルなので、これはあんまり「らしくない」曲なんですが、取っつきやすくて好きです。


2 Belle and Sebastian
スピッツのマサムネさんも大好き、ベルセバです。


3 Mogwai
この曲昔やりました。ファズを踏んでゴシャーってやるのがとても気持ちいいんです。



いろいろ課題も葛藤もありますが、悔いのないよう一日一日に魂をこめて過ごしたいものです。