アフリカすみれの美学

青い眼がほしい (TONI MORRISON COLLECTION)

青い眼がほしい (TONI MORRISON COLLECTION)

トニ・モリスンのデビュー作。
「黒人であること、女性であることをアルファかつオメガに据えるアイデンティティ主義の文学」という批判を先に知ってから読んだのだが、1970年発表の本作ではアイデンティティ主義の色はまだそれほど強く出ていないと思う。
むしろ全体の読後感としては、一世を風靡しただけのことはあると思わせる、骨太な筆の力みたいなものが印象に残る。
白人社会に対して劣位に置かれる黒人社会の中で、黒人男性のさらに劣位に置かれる黒人女性の生の様態が積極的に描写されることはそれまでのアメリカ文学では稀だった。モリソンは彼女たちの生活に光を当てる。

世界中の人々が彼女たちに命令する立場にいた。白人の女たちは、「これをやれ」と言った。白人の子供たちは、「あれをくれ」と言った。白人の男たちは、「ここへ来い」と言った。黒人の男たちは、「横になれ」と言った。彼女たちが命令を受けなくてもすむのは、黒人の子供たちとお互い同士だけだった。しかし、彼女たちはそうしたことをすべて受け入れて、それを自分たち自身のイメージのなかに再創造した。(・・・・・・)彼女たちは一方の手で子供たちを引っぱたき、もう一方の手で子供のために盗みを働いた。木々を刈り倒す手が、へその緒も切った。ひな鶏の首をひねり、豚を殺す手が、また、アフリカすみれをそっと突ついて花を咲かせた。穀物の束や、梱や、袋を荷車に積みこむ腕が、赤ん坊をゆすって寝かしつけた。彼女たちは柔らかい丸パンを軽くたたいて、薄片状の無邪気な卵型を作り――死者に経帷子を着せた。彼女たちは一日中鋤で耕し、家に帰ってきて、夫の手と足の下にプラムのように気持ちよく横たわった。らばの背の鞍にまたがる脚は、夫の腰にまたがる脚と同じものだった。それだけのちがいしかなかった。(159)

黒人女性の手や腕や脚のイメージを多用することで、彼女たちの生活のありようが生々しく、有機的に、立体的に描かれている。さらに、特定の名前の付いた個人ではなく匿名の「彼女たち」を主語にすることで、この引用部は一つの集団の生活史という大きいイメージを立ち上げる。

書きながら気付いたのだが、「アフリカすみれ」は上手いけど少し問題含みな気がする。
というのも、「彼女たちは一方の手で〜」から引用部の終わりまでは、実は必ずしも黒人女性に限ったシチュエーションではない。労働者階級の女性ならば白人でもアジア系でもヒスパニックでも、こうしたハードな賃金労働と家庭内労働の両方をこなすことが求められてしまう。つまり、引用部の後半の描写は、本来は「人種と女性」というよりは「階級と女性」の描写なのではないだろうか。
だが、ここで「アフリカすみれ」が黒人女性の生活文化を他の集団のそれから峻別し、黒人女性の美学とでもいうべき意識を立ち上げる契機になっている。

言い換えると、モリソンはここで他の花ではなくアフリカすみれを、かなり意識的に選んでいるような気がするのだ。アフリカすみれは白人女性やアジア系女性の表象になりえないから、その選択は究極的には、人を定義不能な身体のレベルで規定しようとする身振り、すなわちアイデンティティ主義と重なる。そして、アフリカすみれの美学は黒人をアイデンティティとして記述することで、階級の問題を隠蔽する機能を果たしてしまってはいないか、そんな印象を受ける。
結局批判っぽいことを書いてしまったけど、重厚で濃密な小説だと思うし、読んで得られるものはたくさんあると思う。
次にモリスンを読むなら、先輩に薦められた『パラダイス』あたりを読もうと思う。