コンセンサス兄妹

フラニーとゾーイー (新潮文庫)

フラニーとゾーイー (新潮文庫)

フラニーとゾーイー』読了(群馬の実家で)。
1955、1957年にそれぞれ短編小説・中編小説として発表された『フラニー』と『ゾーイー』の二作を一つにまとめて1961年に出版された、J・D・サリンジャーの第三作。


今のところ読んだことのあるサリンジャー作品の中では、個人的な好みとしては『ナイン・ストーリーズ』>『フラニーとゾーイー』>『キャッチャー』という感じ。
『キャッチャー』の自由奔放な文体だけを読むと、サリンジャーは天然系の作家なのかと思いがちだが、他の作品も読むと実はバリバリの技巧派、ゲロテク作家なのだとわかる。小説内の様々な細部同士の関係を綿密に吟味して、緻密な計算の上に小説世界を練り上げている、そんな印象を受ける。
『キャッチャー』は、ハマる人はとことんハマるが逆に乗れない人は全く乗れないという作品だと思うのだが(自分はあまり乗れなかった方)、『フラニーとゾーイー』はもっと多くの読者が小説世界に入りやすいように間口を広くとっているように感じた。


前半の『フラニー』は、多感な女子大生フラニーとその恋人である俗物大学生レーンとの喫茶店での会話が小説のほとんどを占める。この二人の会話のかみ合わなさっぷリがもうたまらない。手元に本がないので引用ができないのが残念。
後半の『ゾーイー』は、心を病んで実家に帰ってきたフラニーを、兄のゾーイーが救おうとする試みを描く。最終的にゾーイーはフラニーの説得、救済に成功する。
本作は、フラニーが自身の過剰な自意識とエゴを相対化し、俗世間との妥協点を見出してひとつ大人になる過程を描いている物語、つまりイニシエーションの物語だと解釈することができるだろう。
だが、ここで強調しなくてはならないのは、フラニーを導くゾーイーの言葉が決してトップダウン型のイデオロギーとして機能しているのではない、という点だ。フラニーはゾーイーの言葉の矛盾を見逃さない。小説中にはゾーイーの言葉の正しさを相対化し、ゾーイーの「善き」思想も一つの言説に過ぎないことを前景化する機会が設けられている。
したがって、『フラニーとゾーイー』における救済は、ゾーイーによるフラニーの一方的な「説得」によってではなく、むしろ二人の議論を通じた「コンセンサス」によってもたらされていると考えられる。
そして、この「コンセンサス」の重視、あるいは民主的プロセスの重視は、映画『12人の怒れる男』と同様、あくまでも冷戦期初期のアメリカの文化的想像力の枠組みに合致するものだと思われる。