What Lies Beneath Encounters

高校の頃に、国語の教科書で確か「出会いの底にあるもの」とかいうタイトルのエッセイを読んだ覚えがある。(黒井千次とかだった気がするが、ググっても出てこなかったので詳細の確認はあきらめる。)
うろ覚えながら、趣旨としてはだいたいこうだった(気がする)。
時としてわたしたちは、「私は○○歳のときに××と運命的な出会いを果たし〜、」的な語りに遭遇する。たとえば「15歳のときにOasisと運命的な出会いを果たして」でもいいし、「27歳のときに生涯の伴侶と運命的な出会いを果たして」でもいいだろう。見聞きするだけでなく、自分が自らそういうことをある種のライフヒストリーとして語ることもあるかもしれない。
そうした語りを聞くと私たちはつい「そうか〜、運命的なお導きってあるものなのだな〜」と思い、いずれ待っていれば自分にもそうした奇跡的な出会いが天から降ってくるのだと考えがちだ。あるいは一生の職業にかかわるような大きな出会いについては、まったく逆に、「少数の選ばれた人たちには待っていても運命が向こうからやってくるが、自分のような凡人にはそうしたものは永遠にこない」とあきらめる人もいるかもしれない。


「出会いの底にあるもの」(仮称)は、そのどちらも間違っているのだと論じていた。あなたが何かと奇跡的に出会ったと考えるとき、その出会いの底には常にその出会いを求めるあなたがいたはずなのだ、と。出会いは、ただ単に魅力的な客体があなたのそばを訪れれば成立するものではない。刺激的な出会いが成立するためには、魅力的な客体に加えて、それを知覚・認識・希求できるあなたがいなければ成立しないはずなのだ。平たくいえば、アンテナが立ってなきゃいくら電波が飛んでても拾えないでしょ、というようなことだ。だから、素敵な出会いを経験したかったら、まずあなた自身のアンテナをより高くはり、よりいろいろな電波を拾えるように磨いていくのが大切なのであり、そうした姿勢こそがいつだって出会いの底にあるのだ、とかそんな感じだったと思う。


なぜにダラダラとこのエッセイの主張を紹介したかというと、ここ一週間でまさにこれにあてはまると思しき体験をしたからなのだ。趣味の音楽のお話なのですが。
昔聞いたときにはさほどいいと思わなかった曲が久しぶりに聞いたらものすごいリアリティをもって迫ってきたことと、その反対に、すごく期待して聞いた某アーティストの新譜が、そこまでいいと思われなかったこと。
最後ハッピーエンドで終わりたいので、いまひとつよさがわからなかった方の話から先に書こう。


情報通の友達に教えてもらったおかげで、2月19日に配信が開始されたRadioheadのニューアルバム『The King of Limbs』を即日ダウンロードできた。

The King of Limbs

The King of Limbs

Radioheadは高校生2年生のときからとても好きなバンドで、自分のあこがれのロックスターは長らくトム・ヨークだった。「Fake Plastic Trees」なんて何回聞いたかわからない。ギターでも何曲も練習した。自分も年をとってきたので徐々にエレキギターディストーションサウンドに疲れるようになってしまい、ここ数年間はいわゆるロックっぽいロックはやや敬遠ぎみだったけど、ポストロック的なテイストの強い『kid A』や『Amnesiac』はときどき無性に聞きたくなるアルバムだった。
そこで今回の『The King of Limbs』である。メロを前面に押し出したアルバムではない。リズムの心地よさを重視しようというコンセプトなのかなという気がする。変拍子ポリリズムなどといったようなリズムパターンへのこだわりだったら、前作『In Rainbows』とかトム・ヨークのソロアルバム『The Eraser』の方が凝っていたと思う。いまのところ「リズムのポップさ」を重視したアルバム、みたいな印象を持っている。もちろん、Radioheadらしい「濃い」音世界は健在だと感じるのだけれど、三日三晩くらい聞き続けるのではないかと思って期待しまくっていたほどには感動できなかった。たぶん久しぶりにトム・ヨークの熱唱を聞きたいと欲望していて、勝手に肩透かし感を受けたのだと思う。
でも、これも単に今の自分のアンテナがこのアルバムの方向性と波長が合っていなかった、あるいは単に自分の耳や価値観が未熟で魅力を十分に汲みきれていないということなのかもしれない、と捉えたくて、上の「出会いの底にあるもの」の話をきっと思い出したのだろう。


それで今度は久しぶりに感動して泣いてしまった話。
あろうことかBilly Joelの「Piano Man」(1973)です。

Piano Man: The Very Best of Billy Joel

Piano Man: The Very Best of Billy Joel

Billy Joelは学部生時代にもCDを借りてきて聞いたはずだし、M1の頃にも人に薦められて聞いたはずなのだけれど、これまでは「まあ確かにいいですよね」くらいの印象しか持っていなかった。
が、つい先日寮の先輩の誕生日パーティーで流れていた「Uptown Girl」を聴いていいなと思い、ベスト版を借りてきたところ、それに入っていたこの「Piano Man」にすっかりやられてしまった。オケも歌メロも素晴らしいけど、歌詞にいちばん感動したのだと思う。そして、昔は特段感想を持たなかったこの歌詞に感動するようになったのは、自分の知識や感性が昔よりも多くを拾えるようになったからなのではないかと考えたいのだ。「出会いの底にあるもの」的な文脈で。
もしおヒマだったら、ぜひ動画にお付き合いください。
いや、こんな駄ブログを読んでくれているあなたはきっとおヒマに違いない。
さあ見るのだ。
まずは歌詞を知っていただきたいので、下の動画を見られたい。

なんといっても、階級を歌っている点がすばらしいと思う。
バーテンのJohnが結局外の世界に出て行けないのも、Davyがおそらく一生Navyから出られないのも、下部構造に生活を規定されているからだ。半分神話化しているかもしれないからどこまで真に受けていいかはわからないけど、Joelがこの曲を作ったのも、デビュー作がセールス的に失敗し、売れないアーティストとして弾き語りで糊口をしのいでいた頃だという。
この曲の中の「私」は、バーで孤独や無力感を紛らわす人々から何かを託されて歌っている。
そして、このことが21世紀の今日の音楽の中にはほとんど見受けられないものなのだと思う。
「社会的なるもの」がごっそり抜けおちてしまったために、もはや歌うべきことが自分の自己実現か、恋愛成就くらいしか残っていないのが今日の状況なのではないか。
歌詞の中のPiano Manは、"us"のために歌う。"me"のために歌うのではない。そしてこの"us"には、誰もが含まれることができる。
彼は階級を歌いつつ、アーティストの社会的使命を背負っている。
21世紀の今日「Piano Man」を聞くことの意義は、Joelが背負ったものの向こうに社会的なるものを感じ取り、それを復権させる欲望を生じさせることにある。というのはさすがにいいすぎかもしれない。

↓はオリジナルのプロモ。ほぼ歌詞のとおりに映像が進行していく。

↓は2006年のTokyo Domeでのライブ映像。
アメリカの場末のバーで弾き語りをして生計を立てていた人物が、ここまで大きな聴衆の前で演奏をするようになった、と思うとなんだか感慨深い。

いやあ、人生っていいですね。