メタァー。

たまには本職のお話でも。

自分は30年代アメリカ文学マルクス主義批評と新歴史主義の方法論を参照しつつ研究している。
ざっくりいうと、ある作品なり作家の美学は社会から独立して存在するのではなく、むしろ根本的なレベルで歴史的諸条件に規定されている、という想定のもとで、小説とそれが書かれた同時代の社会状況の間にどんな関係性があるのか、あるいはその裏側にどんな欲望や願望が隠されているのかを考えたりしている。


最近方法論的にちょっと行き詰まりを感じていたので、状況を打開すべく積ん読本だったHayden Whiteの_Metahistory_(1973)に手を出す。

Metahistory: The Historical Imagination in Nineteenth-Century Europe

Metahistory: The Historical Imagination in Nineteenth-Century Europe

まだイントロの途中だしまとまったコメントはできないが、かなり刺激的だ。
ホワイトは、歴史や歴史哲学を描いた19世紀の古典的著作――歴史家ではMichelet, Ranke, Tocqueville, Burckhardt、哲学者ではHegel,Marx, Nietzsche, Croce――をフォルマリスト的手法で解釈することを提案する。
すなわち、内容(content)のレベルでデータが正確かどうかではなく、彼らの語りが持っている詩的な力こそが彼らを天才たらしめている要素なので、彼らの語り方の形式(form)をこそ検証しなきゃダメなのよ、というわけだ。

In the consideration of such thinkers, I will moot the issue of which represents the most correct approach to historical study. Their status as possible models of historical representation or conceptualization does not depend upon the nature of the "data" they used to support their generalizations or the theories they invoked to explain them; it depends rather upon the consistency, coherence, and illuminative power of their respective visions of the hitorical field. This is why they cannot be "refuted," or their generalizations "disconfirmed," either by appeal to new data that might be turned up in subsequent research or by the elaboration of a new theory for interpreting the sets of events that comprise their objects of representation and analysis. Their status as models of historical narration and conceptualization depends, ultimately, on the preconceptual and specifically poetic nature of their perspectives on history and its processes (4).
[拙訳]
こうした思想家たちについて熟慮するにあたり、私は歴史研究にとってもっとも正確なアプローチをだれが代表しているか、という論点を実質的に無意味なものとする。歴史の表象や概念化について彼らがモデルたりうるのは、彼らがその一般化を支持するべく用いた「データ」の性質や、あるいはそれらの説明のためにもってくる理論のゆえではない。むしろ、彼らの地位は、歴史分野に関する彼らめいめいのヴィジョンがもつ、一貫性、整合性、そして啓発的な力に拠っている。このことこそが、後続の研究に現れる新しいデータへのアピールや、あるいは出来事を解釈する新しい理論の練り上げによっても彼らが「論駁」されえず、彼らの一般化が「反証」されえない理由なのだ。歴史語りや概念化のモデルとしての彼らの地位は、究極的には、歴史やその過程に関して彼らの展望がもつ、前概念的かつ際立って詩的な性質によっているのである。

アツイね!
順調にいけば7月中にはイントロを読み終わるはずなので、またおいおいイントロ全体の紹介ができればと思う。



最近ふと思うのだが、今まで生きてきた中で今が一番充実している。
サークル活動に没頭していた学部生時代よりも、ヒリヒリとした充実感があり、日々の躍動がある。
新しい人、もの、こととの出会いが頻繁にあり、もっと多くを知りたい、と思う。
一日でも長く生きたいと思う。
そしてそれはとても恵まれていることだと思う。

23歳で会社を辞めて院に進学する決断をしたときには、止める人もいたし、副支店長に「勝算はあるのか」と問われて、自分自身即答することはできなかった。

でも、自分の中に後悔しない自信だけはあった。


ターミネーター2』のセリフみたいでアレだけど、自分の人生の納得度は自分で切り開くものだと思う。
むろん、どこまでも周囲の人に助けられながら、なのだけれど。