都合のよい言説

新学期も今週から本格的に講義開始だが、さっそく月曜日から講義が面白くてたまらない。

新しく月曜3・4限に履修した先生の授業が、今まで横目に見つつもきちんと正面からは読んでこなかった諸分野をとても丁寧に説明してくれるのだが、とても刺激的で勉強になる。
初回は3限でFredric JamesonのCognitive Mapping論の解題を聞き、4限のゼミでは同じくJamesonによる『The Modernist Papers』から、大江健三郎論を読む。

The Modernist Papers

The Modernist Papers

近代において断片化した個が、いかにして自らの局所的な知覚経験を表象不可能な社会システム全体のうちに位置づけて把握できるのか、という問いを考えるときにJameson御大は両者を媒介するものとしてModernismの力を重視する。なぜ個と社会システムの媒介物を美学的なイデオロギーに頼らなければならないのか、というNancy Fraserのまっとうな問いに対しては、Jameson御大は科学言説では個人の知覚経験にアクセスすることができないからだと答えておられる。大まかにはこれがCognitive Mappingの枠組みなのだが、「全体と部分」というテーマ系は自分が近々修論をリヴァイズするときにそのまま使えるものなので、ものすごい刺激的だった。今日は抽象度高めの理論の話だったけれど、そのうち具体的な実践の話も学べたらなあと思う。

4限ゼミの大江論は、『宙返り』を中心に論じたもの。大枠は、①『宙返り』は大江の作品群の中では新しい試みに見えるが、実のところは大江の作品が常に描いてきた歴史の多層性にポスト・オウムの新しい層を一つ足しているだけのこと、②大江はある種の地域主義にコミットしているが、それは(特に「歴史の終焉」後に顕著になった)アイデンティティ主義ではなく、むしろ歴史という動力源、抵抗の反復を描こうとする結果である、つまり大江の"the power of the land"は、歴史の復権として把握されるべき、といった感じ。各論は刺激的でも全体の中でのつながりがよくわからない謎の書き方がいかにもJameson御大らしいという印象を受ける。もっとご自分の論考にもCognitive Mappingを施してください、と皮肉を言いたくなりつつもむっちゃ面白いから全然オッケーです。
そして、せっかくだからこの機会にと思って今更ながら『万延元年のフットボール』(1967)を読む。衝撃的面白さだった。

万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)

万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)


時々、自分の読書量の少なさにげんなりする。高校とか大学のころに、もっとむさぼるように本を読んでおけばよかったと悔いるのである。ちょっと方向転換するのが遅すぎたのかな、とか弱気になることもある。
しかし、そんなネガティブな気持ちをふっ飛ばすくらい強烈な『万延元年』と、なぜか引き込まれる魅惑のJameson論文だった。すごい求心力だ。
これだけ面白いと、もはややめられない。
「何かをはじめるのに遅すぎるということはない」などという都合のよい言説を味方につけて、明日もがんばろうと思う。