The trick is that you don't think about a Indian being ...

ようやくMcCullersの論文執筆に取り掛かりはじめた。

Modern Classics Heart Is A Lonely Hunter (Penguin Modern Classics)

Modern Classics Heart Is A Lonely Hunter (Penguin Modern Classics)

アメリカ南部の田舎町を舞台に、聾唖の男John Singer(耳は聞こえなくても口元が読める)と、彼だけに自分の日々の悩みや不満や願いや希望を話す4人の男女をめぐって話が展開する。
情景描写の鮮やかさや細やかな心理描写のせいあって、前半までは下町人情モノとか青春小説的な印象をいくらかもっていたのだけれど、中盤以降はバリバリにポリティカルだった。
イタリア・ムッソリーニ政権のファシズムやドイツナチズムの台頭、それに対抗するための戦闘的民主主義の必要性、工場や農場で搾取されている賃金労働者を救済するための共産主義の理念、そして南部の深刻な黒人差別問題、こうした問題系が登場人物の間で論争になっていく。


以下、↑のペーパーバック版にKasia Boddyによるとても素敵なイントロがついていたので、参照させていただきつつMcCullersや本作について少しだけご紹介。
作者であるMcCullers女史は、この処女作が1940年に出版されたとき、まだ若干23才。男物の白シャツを着て指先にタバコをはさんだ有名な写真イメージもあいまって、彼女は、最初から一つのアメリカの伝説だったという。
(↓でグーグルの画像検索に飛びます。三つ目の写真が特に有名のようです。)
http://www.google.co.jp/search?q=carson+mccullers&hl=ja&rlz=1C1RNPN_enJP383JP386&prmd=imvnsbo&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=dhKCTtOjB6bPmAX4_eEr&ved=0CDsQsAQ&biw=1280&bih=649


詩的な作品を評価しつつ、政治的な作品を厭う保守的な1940年代―50年代の英米批評空間の中では、本作は「ドキュメンタリーがやりたい」のかそれとも「詩的な価値を作品に付与したいのか」が曖昧だという根拠で、必ずしも高く評価されたわけではなかった。事実、そうした風潮の中にあったMcCullers自身、ここまで赤裸々に政治的な小説を書くことはそれ以降二度となかった。しかし、本作を書いた1938年と39年には、「マッカラーズにとって、政治と詩とを、また、ドキュメンタリーと「プロレタリア的奇怪さ」と呼ばれてきたものとを接続することには何の問題もなかった」(Boddy, xviii)のだそうだ。


僕の浅はかな知識でも、既にいろんな文脈が浮上してくる。ムチャ面白いし、間違いなく博論の重要な一章になってくれる素晴らしい小説だと思う。
ひとまず10月末の〆切に向けてがんばるぞ!



で、もう一つおまけで、この小説の中に出てきたクイズをば。
全然重要なシーンとかではない、枝葉の部分からなのだけれど。
ぜひお付き合いいただきたい。
ジョージがポーシャになぞなぞを出している。

‘Two Indians was walking on a trail. The one in front was the son of the one behind but the one behind was not his father. What kin was they?'
‘Less see. His stepfather.'
George grinned at Portia with his little square, blue teeth.
‘His Uncle, then.'
‘You can't guess' (243).
[拙訳]
「二人のインディアンが小道を歩いていたんだ。前を歩いているほうは後ろのやつの息子なのだけど、でも後ろのやつは彼の父親ではありません。彼らはどんなつながりなのでしょう?」
「そうねえ。彼の義父だわ。」
ジョージはポーシャに、小さくて四角い、青白い歯を見せてニヤッと笑った。
「なら彼のおじよ。」
「わかりゃしないよ」


さあ、どうだろうか。
こんなブログを読んでくださっている、寛大にしておヒマなあなた、是非考えてみてください。
正解はこちら。
枠の中を文字反転させれば読めると思います。

‘It was his mother. The trick is that you don't think about a Indian being a lady' (243).
[拙訳]
彼のお母さんだったのさ。ひっかけは、みんなインディアンが女性だとは思わない、ってことだよ。


さらにもう一つ、応用編ということで、こっちはどうでしょうか。結構有名な問題で、僕が昔就職した会社の入社式でも取り上げられていたくらいなので、すでに答えを知っている人もいるかもしれませんが。

路上で交通事故がありました。大型トラックが、ある男性と、彼の息子をひきました。父は即死しました。息子は病院にはこばれました。彼の身元を、病院の外科医が確認しました。外科医は「息子!これは私の息子だ!」と、悲鳴をあげました。

この話は筋が通らないのでしょうか?
さっきの問題を知っていれば、これは一瞬で答えがわかった人もいるかもしれません。


答えいきます。

外科医は母親。ポイントは、外科医=男だと思いこまれがちだということ。


二つとも似たような問題だけど、ここから引き出すべき教訓は、おそらく、フラットに物事を見ているつもりでも、いかに僕たちの眼差しがステレオタイプ化の暴力を内面化してしまっているかということ、そしてより重要な点として、偏見は意識して一つ一つ改めていくものだということ、だろうと思う。
言葉の網の目の中に生きている以上、そこから完全に自由になるなんてことはついにできないのかもしれないけれど、意識すれば一つ一つ、絡まった結び目をほどいていくことはできる。



すっかり気候も変わって秋になってしまい、10月から学校も始まる。
10月は相当詰め込みすぎて、睡眠不足になるんだろうなあと今から危惧もあるが、全部自分で決めたことだから覚悟して臨みたい。
・・・いや、こんなブログ書いているヒマがあったら今寝ろボケ、という主張には100%同意しますけど。