建設的/委託/募金

3月11日、大学で開催されたシンポジウムに参加中、ゲストスピーカーの先生がご発表をなさっていると会場の教室がえらく揺れる。
東日本大震災だった。


自分が住んでいる西東京では交通の乱れ以外にはそこまで大きな被害は出なかったが、3月13日現在、新聞やテレビニュースなどのマスメディアからの情報・映像は、東北の人々がいかに甚大な被害に遭っているかを伝えている。
マスメディア以外にも、もっとミクロなレベルのメディア、twitterやブログやfacebookもさまざまな情報を流通させている。
自分にできることは何か、どんな姿勢でいるべきなのかと考えながらこれらのミクロなメディアを読んでいく中で、極めてまっとうだと思われる意見が書かれたブログが2つあったので、そのリンクを載せつつ、自分なりに今大切だと思われることをメモしておく。


1)マサチューセッツ在住の作家・コラムニスト・翻訳家の渡辺由佳里さんのブログの、3/12のエントリー。
http://ht.ly/4d1o8


2)言わずと知れた内田樹さんのブログから、3/13のエントリー
http://blog.tatsuru.com/



この二つのブログから自分なりに心がけたいと思うことを抽出すると、

1)否定的な言葉を発するのは抑制する
渡辺さんのブログが主張するように、「〜してくれない」や「あてにならない」という言葉を今発することは、害にしかならないと思う。現場の人たちは体を張って全力で救助・支援に臨んでくれているのだから、これらの言葉は悪口にはなっても正当な批判にはなりえず、何も生み出さないだろう。しかも、これらの言葉が広まっていくと、自分が何をできるかを探すことよりも、やってもらうことばかりを望む欲望が社会の中に広がり、ひいては、草の根レベルで自発的に役割を果たしてくれる人々が減っていってしまいかねない。だから、今は否定的な言葉よりも、建設的な言葉を積み重ねていきたい。


2)専門家を信頼する
1ともかぶる部分があるけど、各問題について精通したプロたちの知見と判断力を信頼する。内田さんのいう「委託」と重なる。当然のことながら自分は、原発のことも、余震のことも、交通整備のことも、泥土の取り除き方も、何も知らない素人だ。被災を免れた素人である自分は、災害に対する支援にあたって、専門家の知見を一番上に置き、その導く道筋に粛々と倣う。


3)具体的な援助は、募金と節電がベース
渡辺さんも書いているように、衣類や毛布、食料などモノを送ることは、下手をしたら邪魔なゴミになりかねない。状況がもう少しクリアになり、何がどれだけどこに必要なのかがわかるまでは、フレキシブルな形のお金でのサポートにした方が無難だと思う。
募金についていえば、渡辺さんが災害時の募金先をどこにするかを決めているのには感銘を受けたが、確かに募金先も吟味するべきだろう。
素人考えだけど、組織のランニングコストも考慮したら、100の組織が100円ずつ持っているよりも、4つの組織が2500円ずつ持っているほうができることの幅は広いような気がする。駅前で募金を集めているとついどんな団体か確認せずに入れたい気持ちになるけど、できるならそのあたりのお金の回り方も視野に入れて募金先を決めたほうがいいのかもしれない。
あとは節電。今バイト先の会社にいるけど、社員さんが帰った部署の電気・暖房は早速切った。電気ポットも使わないので抜く。


3日以内に70%の確率で震度7以上の地震がくるという恐ろしい予報があるが、来たとしてもパニックにならずに対応したい。

What Lies Beneath Encounters

高校の頃に、国語の教科書で確か「出会いの底にあるもの」とかいうタイトルのエッセイを読んだ覚えがある。(黒井千次とかだった気がするが、ググっても出てこなかったので詳細の確認はあきらめる。)
うろ覚えながら、趣旨としてはだいたいこうだった(気がする)。
時としてわたしたちは、「私は○○歳のときに××と運命的な出会いを果たし〜、」的な語りに遭遇する。たとえば「15歳のときにOasisと運命的な出会いを果たして」でもいいし、「27歳のときに生涯の伴侶と運命的な出会いを果たして」でもいいだろう。見聞きするだけでなく、自分が自らそういうことをある種のライフヒストリーとして語ることもあるかもしれない。
そうした語りを聞くと私たちはつい「そうか〜、運命的なお導きってあるものなのだな〜」と思い、いずれ待っていれば自分にもそうした奇跡的な出会いが天から降ってくるのだと考えがちだ。あるいは一生の職業にかかわるような大きな出会いについては、まったく逆に、「少数の選ばれた人たちには待っていても運命が向こうからやってくるが、自分のような凡人にはそうしたものは永遠にこない」とあきらめる人もいるかもしれない。


「出会いの底にあるもの」(仮称)は、そのどちらも間違っているのだと論じていた。あなたが何かと奇跡的に出会ったと考えるとき、その出会いの底には常にその出会いを求めるあなたがいたはずなのだ、と。出会いは、ただ単に魅力的な客体があなたのそばを訪れれば成立するものではない。刺激的な出会いが成立するためには、魅力的な客体に加えて、それを知覚・認識・希求できるあなたがいなければ成立しないはずなのだ。平たくいえば、アンテナが立ってなきゃいくら電波が飛んでても拾えないでしょ、というようなことだ。だから、素敵な出会いを経験したかったら、まずあなた自身のアンテナをより高くはり、よりいろいろな電波を拾えるように磨いていくのが大切なのであり、そうした姿勢こそがいつだって出会いの底にあるのだ、とかそんな感じだったと思う。


なぜにダラダラとこのエッセイの主張を紹介したかというと、ここ一週間でまさにこれにあてはまると思しき体験をしたからなのだ。趣味の音楽のお話なのですが。
昔聞いたときにはさほどいいと思わなかった曲が久しぶりに聞いたらものすごいリアリティをもって迫ってきたことと、その反対に、すごく期待して聞いた某アーティストの新譜が、そこまでいいと思われなかったこと。
最後ハッピーエンドで終わりたいので、いまひとつよさがわからなかった方の話から先に書こう。


情報通の友達に教えてもらったおかげで、2月19日に配信が開始されたRadioheadのニューアルバム『The King of Limbs』を即日ダウンロードできた。

The King of Limbs

The King of Limbs

Radioheadは高校生2年生のときからとても好きなバンドで、自分のあこがれのロックスターは長らくトム・ヨークだった。「Fake Plastic Trees」なんて何回聞いたかわからない。ギターでも何曲も練習した。自分も年をとってきたので徐々にエレキギターディストーションサウンドに疲れるようになってしまい、ここ数年間はいわゆるロックっぽいロックはやや敬遠ぎみだったけど、ポストロック的なテイストの強い『kid A』や『Amnesiac』はときどき無性に聞きたくなるアルバムだった。
そこで今回の『The King of Limbs』である。メロを前面に押し出したアルバムではない。リズムの心地よさを重視しようというコンセプトなのかなという気がする。変拍子ポリリズムなどといったようなリズムパターンへのこだわりだったら、前作『In Rainbows』とかトム・ヨークのソロアルバム『The Eraser』の方が凝っていたと思う。いまのところ「リズムのポップさ」を重視したアルバム、みたいな印象を持っている。もちろん、Radioheadらしい「濃い」音世界は健在だと感じるのだけれど、三日三晩くらい聞き続けるのではないかと思って期待しまくっていたほどには感動できなかった。たぶん久しぶりにトム・ヨークの熱唱を聞きたいと欲望していて、勝手に肩透かし感を受けたのだと思う。
でも、これも単に今の自分のアンテナがこのアルバムの方向性と波長が合っていなかった、あるいは単に自分の耳や価値観が未熟で魅力を十分に汲みきれていないということなのかもしれない、と捉えたくて、上の「出会いの底にあるもの」の話をきっと思い出したのだろう。


それで今度は久しぶりに感動して泣いてしまった話。
あろうことかBilly Joelの「Piano Man」(1973)です。

Piano Man: The Very Best of Billy Joel

Piano Man: The Very Best of Billy Joel

Billy Joelは学部生時代にもCDを借りてきて聞いたはずだし、M1の頃にも人に薦められて聞いたはずなのだけれど、これまでは「まあ確かにいいですよね」くらいの印象しか持っていなかった。
が、つい先日寮の先輩の誕生日パーティーで流れていた「Uptown Girl」を聴いていいなと思い、ベスト版を借りてきたところ、それに入っていたこの「Piano Man」にすっかりやられてしまった。オケも歌メロも素晴らしいけど、歌詞にいちばん感動したのだと思う。そして、昔は特段感想を持たなかったこの歌詞に感動するようになったのは、自分の知識や感性が昔よりも多くを拾えるようになったからなのではないかと考えたいのだ。「出会いの底にあるもの」的な文脈で。
もしおヒマだったら、ぜひ動画にお付き合いください。
いや、こんな駄ブログを読んでくれているあなたはきっとおヒマに違いない。
さあ見るのだ。
まずは歌詞を知っていただきたいので、下の動画を見られたい。

なんといっても、階級を歌っている点がすばらしいと思う。
バーテンのJohnが結局外の世界に出て行けないのも、Davyがおそらく一生Navyから出られないのも、下部構造に生活を規定されているからだ。半分神話化しているかもしれないからどこまで真に受けていいかはわからないけど、Joelがこの曲を作ったのも、デビュー作がセールス的に失敗し、売れないアーティストとして弾き語りで糊口をしのいでいた頃だという。
この曲の中の「私」は、バーで孤独や無力感を紛らわす人々から何かを託されて歌っている。
そして、このことが21世紀の今日の音楽の中にはほとんど見受けられないものなのだと思う。
「社会的なるもの」がごっそり抜けおちてしまったために、もはや歌うべきことが自分の自己実現か、恋愛成就くらいしか残っていないのが今日の状況なのではないか。
歌詞の中のPiano Manは、"us"のために歌う。"me"のために歌うのではない。そしてこの"us"には、誰もが含まれることができる。
彼は階級を歌いつつ、アーティストの社会的使命を背負っている。
21世紀の今日「Piano Man」を聞くことの意義は、Joelが背負ったものの向こうに社会的なるものを感じ取り、それを復権させる欲望を生じさせることにある。というのはさすがにいいすぎかもしれない。

↓はオリジナルのプロモ。ほぼ歌詞のとおりに映像が進行していく。

↓は2006年のTokyo Domeでのライブ映像。
アメリカの場末のバーで弾き語りをして生計を立てていた人物が、ここまで大きな聴衆の前で演奏をするようになった、と思うとなんだか感慨深い。

いやあ、人生っていいですね。

As if I expected to see...

ブログタイトル"Like a Kite on a Broken String" (糸の切れた凧のように)は、Truman Capoteの短編 "A Christmas Memory" (1959)から取っている。

タイトルの通りクリスマスの思い出を描いた小説だからこの間のクリスマスのときにでも書くべきだったのにそうせず、今更になって書くのは昨日雪が降ったからです、というのはこじつけです。
なんとなく書きたくなったのです。


カポーティの作品の内いわゆる「アラバマもの」といわれるシリーズに属する作品で、Buddyと呼ばれる男の子(本名は明かされない)が、昔南部で一緒に暮らしていたいとこのおばあちゃんとの思い出を一人称で語る。
おばあちゃんの作るフルーツケーキのくだりや、クリスマスツリーのための最高の木を切り出しに森へ入っていくシーン、飼い犬Queenieと三人で凧上げをする場面、どれをとってもステキ。


でも、やっぱりこの短編が好きなのは、エンディングが見事すぎるから。
最後の2ページちょっとの締めは、本当なら全部引用したいのだけど、長すぎてもなんなので、最後の一段落だけ。
7歳のクリスマスをおばあちゃんと一緒に過ごした後、Buddyは陸軍士官学校に入れられることになり、おばあちゃんやQueenieとはなればなれになる。
数年間はおばあちゃんもQueenieも元気で時々Buddyと文通をしているが、やがてQueenieはある事故によって亡くなり、おばあちゃんも徐々に弱っていき、ついにある朝息をひきとる。
そしてQueenieと彼女の死を受けて、最終段落。

And when that happens, I know it. A message saying so merely confirms a piece of news some secret vein had already received, severing from me an irreplaceable part of myself, letting it loose like a kite on a broken string. That is why, walking across a school campus on this particular December morning, I keep searching the sky. As if I expected to see, rather like hearts, a lost pair of kites hurrying toward heaven (177-8).
(大意)
そしてそれが起こったとき、ぼくにはそれがわかる。そのことを告げる便りは、ある秘密の感覚がすでに受け取っていた情報の一部を確かめるにすぎない。そしてぼくからかけがえのない一部分を切り取り、糸の切れた凧のように空へと放ってしまう。だからこそ、この特別な12月の朝に校庭を歩いて回り、ぼくは空に何かを探し求めている。ハート形に似た、一組の迷子の凧が急ぎ足で天国に向かうのが見える、まるでそんなことを期待しているみたいに。


Buddyから分かたれた「かけがえのない一部分」は、空に解き放たれる。
おばあちゃんとQueenieも、天国へと向かっていく。
両者を包含するこの「空」と、そこへ向かって昇華が起きていくイメージって何なのかを考えなくてはいけないのだろうと思う。
・・・が、冷戦リベラリズムの話とかを考え出すとまとまらなくなるので、すごく印象批評的なことを書いてお茶をにごす。


ラストシーンは確かに「イノセンスの喪失」でもあるのだが、他方でネガティブな側面だけでないある種の希望(成長)が感じ取れなくもない。
最後の一文では、仮定法の使用からもわかるように(As if I expected to see)、Buddyは、迷子の凧なんて見えないことがわかっている。
でも空を見上げずにはいられない。
天国に向かう二人を見ることは、二人の幸福を見届けることであると同時に、自分にとっての救いでもあるから。
二つの迷い凧を見ることができれば、かけがえのない一部を失った自分も、欠けてなお生きていける。
そういう読み方をしたいと思うのだ。
ブログのタイトルをこのくだりから持ってきたのも、単にカポーティの美文が好きっていうことの他に、"a kite on a broken string"の矛盾しつつも共存する両価性――喪失感と救済感――を込めたかったという意図がある。



全然関係ないけど、9月のブログに書いた屋久島旅行に一緒に行ったメンバー、「リーダー」と「UMA」がやっているバンド「Chaos. Inc」が、ライブハウスマガジン『JUICE』の取材を受けたよ!
学部生時代に入っていた軽音楽部の同期4人がやっているバンドなのだけど、笑顔のたいへん素敵な4人組なのでよかったら応援よろしくお願いします〜!
CDもアマゾンで買えますよ!


・『Web Juice2月号』のURL
http://www.juicemusic.com/juice/1102/11_ChaosInc.html

・アマゾン商品ページ
http://www.amazon.co.jp/Wonderworks-Chaos-Inc/dp/B00489MF3E/ref=sr_1_3?ie=UTF8&qid=1297598127&sr=8-3

出願と私

年末から常に頭のどこかにこびりついていた懸念の出願作業が、ようやく一段楽した。
全12校にアプライし、あとは結果を待つばかり。
一つでも拾ってくれるところがあるといいなあ。
できれば暖かいところ(物理的・心理的両方)キボンヌ。
冬学期の授業も1月末に全て終わり、ここからは年末年始の時間を取り返すべく遊び呆けるぜ!・・・というわけにはいかず、3月の学会発表に向けてさらにがんばります。
たくさん読みたい本がたまっているのだ。
出願用にSample WritingやStatement of Purposeを書いていると、自分がそれまで持っていた知識を整理したり、アウトプットの訓練をしたりする機会には恵まれるのだが、いかんせん肝心のインプットがおろそかになりがちだ。
出願が終わって、やっと本を読む時間がまとまってとれるのはありがたい。


出願プロセスを経て、勉強になったと思うことが2つある。
一つは、英文の斜め読み的な読み方、あるいはスキャンする感じの読み方ができるようになったこと。
出願先大学の不親切なホームページからあちこちのリンク先をたらい回しにさせられ、しかも各ページの情報がかみ合っていないというファンキーな状況に幾度となく遭遇するうちに、一文一文きっちり精読するのではなく、「このへんはだいたいこういうことを言っている」という、段落や項目レベルでのざっくりした読解ができるようになった。
そうやって必要な情報がどこにあるかを見極めてから、該当箇所だけを熟読するようにすれば事務作業の効率はずっといい。
1月末に腕試しのつもりで一年ぶりにTOEICを受験してみたけれども、リーディングに関しては一年間でいくらかマシになったと感じた。もとが低レベルすぎたのはさておき。


2つ目は、ある種のバイタリティーだ。
カタストロフィックなGPAをはじめ、GRETOEFLもスコアが低い自分は、なんだか出願の時点で劣等生感丸出しだった。
本来足きりに引っかかっているにもかかわらずしれっと出願した大学も多々ある。
事務手続きも、さぐりさぐりでどうにかこうにか進めていった。
しかし、それでもとにかく出さなきゃはじまらん。
そして、考えてみれば右も左もわからないけどとにかくぶつかってみるしかない、という状況はこの先長く続くのだ――少なくとも5年間は。
一つ上で現在留学中のすごくデキる先輩ですら、おととい会ったとき「日本人留学生なんて恥かくために行くようなもので、カッコつけて黙っててどうする」と言っていた。
傷つくのをこわがらずに、むしろ先がわからないことを楽しむくらいの気持ちでここから先の時間を過ごしていけたら、と思う。
いや、もちろんこたつでぬくぬく「出られなーい」とか言っていたいし、『Ugly Betty』観たい気持ちも抑えられませんが(笑)。

It tolls for thee.

新年明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い致します。


およそ2カ月ぶりのブログですが、いぜん元気にやっております。
留学の出願が本格的に始まり、生活がいよいよテンパり出し、ブログの更新が滞っておりました。
年末年始は実家に帰省したものの、出願準備に追われ、朝から晩まで英文とにらめっこ。
ひとまず4校出願して、あと残り4校出す予定。
3月末には一通りの結果が出ると思うので、その頃に会って表情がこの世の果て的な感じだったら、察してやってください。
逆にドヤ顔だったら、それもまた察してやってください。


今年の抱負的な感じで、ちょっと引用を。

For Whom The Bell Tolls

For Whom The Bell Tolls

ヘミングウェイ『誰が為に鐘は鳴る』(1940)作中に、タイトルの由来にもなっているJohn Donneの詩が出てくる。

"No man is an island, entire of itself; every man is a piece of the continent, a part of the main. If a clod be washed away by the sea, Europe is the less, as well as if a promontory were, as well as if a manor of thy friend's or of thine own were: any man's death diminishes me, because I am involved in mankind, and therefore never send to know for whom the bell tolls; it tolls for thee."

〈大意〉
人はだれしも孤立した島ではなく、それ自体で完結してはいません。あらゆる人は大陸の一かけらであり、本土の一部分なのです。もし土くれが海に押し流されてしまえば、ヨーロッパはその分小さくなります。ちょうど岬が流されてしまったり、あなたの友だちやあなたの土地が流されてしまうときと同じように。私は人類全体に参与しているのですから、誰ひとりが死んでしまっても私はそれだけ小さくなってしまいます。だから、教会で人の死を告げる鐘が鳴っていても、あれは誰のために鳴っているのかと問わないでください―あの鐘はあなたのために鳴っているのです。

実のところ、この引用句の政治性を批判することは容易だろう。
例えば、"man"や"mankind"で人類全体を表象しようとすることは男性中心主義的。
"a promontory"は、岬だがここではペニスの隠喩になっていて、男性の性機能喪失の恐怖を刻印している。
"the continent"があくまでも"Europe"なのは、西洋中心主義のあらわれ。
ひいては、この詩は植民地を西洋列強が支配しようとするときに、その暴力を美学的に隠蔽する装置として機能してきたのだ、などなど。
多分そういった批判をする先行研究は一定数あるだろうし、そうした批判にはそれなりに正当性も意義もあると思う。


しかしながら、この詩に書かれているある種のユートピア的ビジョンには、またそれなりに今日的意義があるのではないだろうか――とりわけ、個の原子化がすすみ、某新聞が年末に「弧族の国」なんて特集を組むご時世には。
自分が何かの一部であるということは、確かに一方では自由の束縛の受容、権力の肯定などを意味するだろう。
だが他方で、自分をより大きな文脈に位置づけることで生まれる豊かさや、それがもたらす新しい自由もある。
Donneの詩の魅力は、自分を他の「個人」(例えば恋人、家族など)と結びつけるのではなく、むしろ「全体性(totality)」の内に位置づけている点にこそある。
"any man's death diminishes me"、この有機的な連帯を想像できるか。
今日散見される「もはや社会なんて存在しないので半径3M以内の愛が全てっス」という発想は、究極的には社会の分断や階級格差の拡大を抑止できず、むしろそれを肯定してしまうかに見える。
自分の日々の営為を、全員で作り上げる一つの大きなプロセスの一部として思い描く、そうした社会的想像力にはまだ意義があるのではないか。
ポジティブな意味での「社会的なるもの」の存在意義を、もう一度考える価値はあるのではないだろうか。
そうした想像力こそが、鐘をより広い人たちに向けて、より深く鳴り響かせるだろう。


・・・みたいなことを今年の抱負にしたいと思ったけど、風呂敷広げすぎ感全開ザンス。
偉そうなこと言わずに、ちゃんとバイトして税金払って研究するっス。


今年もどうぞよろしくお願いいたします!

11月の音楽と私

音ネタを2つばかし。
一つ目は、最近買ったイヤフォンのお話。先月、それまで使っていたイヤフォンが断線により壊れてしまったので、新しいイヤフォンを買った。おニューは、知人に勧められて前から気になっていたAKGのイヤフォンにしてみた。モニター用らしい。

AKG プロフェッショナルモニター・ワイドレンジイヤフォン IP2 【国内正規品】

AKG プロフェッショナルモニター・ワイドレンジイヤフォン IP2 【国内正規品】

ちなみにそれまで使っていたイヤフォンはsennheiserの低音がズドーンと出るタイプ。
ゼンハイザー カナル型イヤホン CX550 STYLE II【国内正規品】

ゼンハイザー カナル型イヤホン CX550 STYLE II【国内正規品】

AKGのIP2は、買ってしばらくはちょっと音が籠り気味だったけど、2週間くらい使い込んでいるうちに、きれいに各音が分離されるようになり、ずいぶんクリアな音になってくれた(こういう経年変化を「エイジング」というらしい)。低音もしっかり出るが、中域のふわっとした部分もうまく響いてくれて、ポップスを聴いていると特に気持ちいい。
先代がかなりドンシャリ(ふくよかな低音はとても素敵だけれど)なイヤフォンだったので、同じ曲を聴いても音の聞こえ方がだいぶ変わって楽しい。
サウンドハウスだったら5000円くらいで買えるし、色々なジャンルの音楽が好きでイヤフォンの買い替えをお考えの方にはオススメですよ〜。ただ、「オレはハードコアとヘヴィメタルラウドロックしか聴かねえぜ!」みたいな方にはもっと違うタイプのイヤフォンの方がいいと思いますが。


二つ目は、最近教えてもらったステキなアーティストについて。既に知っている人にとっては何をいまさらっていう感じかもしれないのだが、「神聖かまってちゃん」というバンドにハマった。


日本のバンドでシューゲイザーをガチでやる人たちってあんまり知らなかったので、まずそこが新鮮。特に上の二つ目の動画、『23歳の夏休み』の音色はすごい気がする。キーボードが基本的に切ない美メロを上で鳴らして、下でギターが強烈なファズとノイズ。ボーカルの浮遊するダミ声のハーモニーが頭に焼きつく。中毒性がある。
歌詞も、↑の一曲目の『ロックンロールは鳴り止まないっ』の一番最初のAメロの歌詞がよく思いつくなあ〜と思った。20代前半くらいのとき、J-POPやJ-Rockってちょっと無理して普遍的なことを歌おうとしすぎなんじゃないかと思っていた。でも最近は相対性理論とかRadwimpsとか柔軟な発想でもっとspecificな歌詞を書く人たちが出てきているのが個人的にはステキだと思っていて、神聖かまってちゃんにもそういうセンスを感じて好きだ。
かなり極端な音色やレコーディングの仕方をしているのだと思うし、歌詞や映像も個性的だけど、あんまり奇をてらっている感じがしなくて、自然にこういう形になっているという印象を受ける。気取っていえば必然性がある気がするということなんだけど、これって結構すごいことな気がする。

GRE Trip to Seoul, 2010

2泊3日でソウルに行ってきた。
アメリカの大学院の文学系の学科に出願するためには、多くの場合GREという試験のSubject(科目別)テストである、Literature in Englishを受験しておく必要がある。年3回しか実施されないテストなのだが、締切近くまで申し込みをしないでいたら日本の受験枠が埋まってしまった。どうしたものかと悩んだところ、お隣の韓国では席が空いているではないか。そういうことならいっそ韓国で受けてしまえ、というわけで急遽受験に行ってきた。旅費は痛い出費だが、航空券がオフシーズンのため二万円くらいで取れたことと、円高による相対的物価安は不幸中の幸いだった。


11日木曜日、サブゼミを欠席させていただき、20時40分成田発の飛行機に乗ってソウルへ。機内の隣の席にいた女性が美術系の仕事をしていらっしゃる方で、色々新鮮な話を聞かせてもらえた。23時過ぎにインチョン空港に到着し、バスで一時間弱かけてソウル市内へ。ホテルは予約していなかったが、前回の韓国旅行でお世話になったところに飛び込んでみたらうまく泊めてもらえてラッキーだった。


12日金曜日、午前中は受験会場の東国大学校を下見し、お昼は大学の学食でビビンバを食す。3500ウォン(約250円)と、かなり格安だった。

午後は大学路(テハンノと読むらしい)という地域を訪ねて、軽く散歩。勉強をしても文句を言われなさそうなカフェを適当に見つけて、6時間くらいこもり、翌日のテストのPractice Testを解き、対策を考える。予想以上に苦戦の予感。帰りにマロニエ公園という場所を通ったら、サックスを吹いている人がいて、黄色い銀杏並木や冬の寒さと相まっていい感じを醸し出していた。また、駅地下の本屋さんでは、外国書だとサンデルさんがやはり人気のようだった。
↓は、マロニエ公園と、本屋さんの何かのランキング。1位と3位がサンデルみたい。


13日土曜日、午前8時に試験会場到着。9時15分〜12時05分まで、170分間で230問のGRE, Literature in Englishを受験する。今までTOEICだのTOEFLだの、果ては証券外務員だの生命保険販売取扱人だの色々な試験を受けてきたが、ここまでできなかったテストは初めてだ。特に、詩とか聖書の問題がでてきた瞬間にページをめくらざるを得なくなる。だって知らないんだもん。中にはよく読めばなんとかなるような、国語みたいな問題もあって、それは素朴に面白かった。アツイ文章なんかもところどころあって、読んでいて引き込まれた。
実はこのテストはちょっと変わった採点方式を採用していて、全部ヤマカンでマークすると得点の期待値が0になるようにできている。全て5択問題なのだが、選択肢が一つも消せない問題については、マークしない方がテスト全体の得点期待値が高い。その結果、ある程度正解が見込める問題だけをマークしたので、私の答案は半分以上がマークされずに残った。だが、テスト終了後答案用紙を回収する時にちらっと見たら、私の右の席にいた合衆国パスポートをお持ちのヒゲもじゃもじゃ男は、回答が真っ黒だった。彼が数学的思考を苦手としているか、または自分の天運を一点の曇りもなく信じているのでない限り、彼にはほとんどの問題が解けたということだろう。当たり前だけど、英米国籍の人間にとっては英米文学って「国語」なんだよなあっていう事実を痛感させられた。別に自分がやることは変わらないから関係ないと言えば関係ないのだが。
夜は19時半にインチョン空港を出発し、21時半頃に成田に到着する。隣の席にいた、二人の子供をもつママさんがいい人だった。自分が院生やってますと話したところ、「明るい未来を頼むよ〜」と言っていた。明るい未来、僕も頼みたいです、と思う。でも、「頼まれる側」を担うのは、つまるところ今生きている一人一人でしかありえない。
自分のやっている小さな営みがどこかで「明るい未来」のために役立てたら、と思う。