読書メモ『海と毒薬』

夏休み読書の第一冊目は遠藤周作『海と毒薬』(1958年)。

海と毒薬 (講談社文庫)

海と毒薬 (講談社文庫)

太平洋戦争中に「九州のF市」の大学病院が米軍捕虜を生体解剖の被験者にした事件を描いた小説。
同大学病院の医学部長のポストをめぐって、医局内部で二つの派閥の対立が生じる。医療ミスによって窮地に立たされた側が、逆転を図るべく軍部と癒着し、米軍捕虜の身体で生体実験を行うことに同意する。
具体的には「血液に生理的食塩水を注入し、その死亡までの極限可能量を調査」、「血管に空気を注入し、その死亡までの空気量を調査」、「肺を切除し、その死亡までの気管支断端の限界を調査」(77)といった3つの実験が行われた。
紛れもない戦争犯罪であり、関係者12人のほとんどが重い罰を受けている。
九州で実際にあった事件をモチーフにした小説らしい。


なぜ本書のタイトルは「海と毒薬」なのだろうか?
おそらく、「海」は抗いがたい時代や社会の流れを表し、「毒薬」は麻酔薬を、そしてそれがもたらす感覚の麻痺を表すのだと解釈することができるだろう。そして、戦時下で、あるいはより広くは近代社会において、いかにして良心というものが存在できるのか、が一つのテーマになっていると思われる。

「海」についていえば、例えば第二章で看護婦上田ノブは戦争を目の前の具体的な空爆としてよりも、漠然としたイメージとして認識する:

夜、眼を覚ました時に聞える海の音がこの頃、なんだか、大きくなっていくような気がします。闇の中で耳をすましていると一昨夜よりも昨夜のほうが、昨夜の方が今夜の方がその波のざわめきが強く思われます。わたしが戦争というものを感じるのはその時だけでした。あの太鼓のような暗い音が少しずつ大きくなり高くなるにつれ、日本も敗け、わたしたちもどこかに引きずりこまれていくかもしれないと思いました。(94)

この「暗い音」の中で、彼女は看護士としての仕事の意義を見失う。

義務だけの仕事はやりましたが、それ以上は手を出さなかったのです。どうせ何をしたってあの暗い海のなかに誰もがひきずりこまれる時代だという諦めがわたしの心を支配していたのかもしれません。(95)

こうした抗えない力としての「暗い海」を前に、小説中の人々は無力感に覆われて描かれている。

 
「毒薬」についていえば、実は小説中には毒薬らしい毒薬は出てこない。唯一描かれる薬は、米軍捕虜の意識を奪う麻酔薬だ。だが、麻酔薬がもたらすこの麻痺作用は、物理的な意味で米兵被験者の神経を麻痺させるだけでなく、より抽象的な意味で生体実験に関わったものたち全ての感覚を蝕むものだとみなすほうが適切だろう。彼らは善悪の感覚や、生の感覚を既に麻痺させている。第二章で、医学生である戸田は自らの半生を振り返りつつ、自分が他人に徹底的に無関心であることに思いをめぐらす。

僕はあなた達にもききたい。あなた達もやはり、ぼくと同じように一皮むけば、他人の死、他人の苦しみに無感動なのだろうか。多少の悪ならば社会から罰せられない以上はそれほどの後ろめたさ、恥ずかしさもなく今日まで通してきたのだろうか。そしてある日、そんな自分がふしぎだと感じたことがあるだろうか。(122)

同様に、戸田は自分たちが解剖した死体の肝臓を手にしても無感動な自分を「不気味」だと感じる。

赤くよどんだ水に漬けられたこの褐色の黒い塊。俺が恐ろしいのはこれではない。自分の殺した人間の一部分を見ても、ほとんどなにも感ぜず、なにも苦しまないこの不気味な心なのだ。(152)

戸田たちの心を無感動にさせたもの、つまり麻痺させた「毒薬」とは具体的には何なのだろうか。それは戦争がもたらした無力感でもあれば、人の死を個別的によりも集合的に捉えなければいけない病院という空間の特殊性でもあるだろう。さらには、医療制度が代表する、個人の思惑を凌駕する近代的な社会制度に原因を求めることもできるかもしれない。
いずれにせよ、小説は最後まで救いを見出すことはない。

二人の若い医学生、勝呂と戸田の次の会話が、この小説の世界観をよく表している。それは、明示的に絶望的なのではなく、どこか漠然と未来がなく、無気力だ。

「神というものはあるのかなあ」
「神?」
「なんや、まあヘンな話やけど、こう、人間は自分を押しながすものから――運命というんやろうが、どうしても脱れられんやろ。そういうものから自由にしてくれるものを神とよぶならばや」
「さあ、俺にはわからん」火口の消えた煙草を机の上にのせて勝呂は答えた。
「俺にはもう神があっても、なくてもどうでもいいんや」(80)


8月は原爆投下と終戦の月でもある。
65年前の戦争のことをちょっと考えてみよう、そんな気になった。